おっさんの戯言

今日もズラトコは社会派ですよ。


世の中って便利になっていくもんですわなぁ。
半年ほど前に愛車にETCを装着いたしまして、
高速道路での料金所の渋滞なぞなんのその、
すいすい〜っと通過できてしまえる次第であります。

でもね、何だか素っ気ないんです。
料金所のしみったれたおっさん相手に、
“はい、700円ね。”
“ありがと、おおきに〜vv”
なやり取りが出来ないんですよ。

別に会話をしたいわけじゃないんですが、
何だか物足りない気がするんです。
それにコミュニケーションをもって“物を買う”ことって、
大事なことなんではないのかと。
お金を入れたら物が買えるとか、
ネット上だけで取引ができるとか、
確かに便利でありがたい存在だけども、
果たしてそれでいいのかと。


外的なものだけではないですわな。
カップラーメン、これも使い勝手が良くなりました。
特にお湯を捨てるタイプの楽チン度が高まってまして、
さまざまな工夫が凝らしてあるわけです。

蓋の3分の1くらいを完全にめくりますと、
その下に薄い新しい蓋があります…2層になってるわけですな。
で、その薄いところに穴が開いてありまして、
麺がこぼれないように液体だけが流れる仕組みになってます。
ワシらの頃は取り外しできる蓋に穴が開いておりまして、
台所の流しで中のお湯を捨てていると、
よく中身ごとごっそり放り出してしまったもんです。

あのやり場のない怒り、
あのやるせない悲しみ、
そういったものをなだめつかせる力を、
ワシらは皆カップラーメンから学びました。
でも若い子達は学べないんです。

カップヌードルの蓋をきちんと閉めるために、
適度な重石になるものを探しまわったあの日、
臨機応変という言葉をワシらは学ぶことができましたね。
数年が経ち底にシールが付随した日、
軽いお箸でも充分に重石とすることができ、
ワシらは感動すると共に進化したんです。
でも若い子達は感動できないことはおろか、
底にあるシールの意図さえ知らないんです。


仲間内で携帯電話を持つのは早い方だったんですわ。
大学入学当時はポケベルが主流だったのですが、
週7で外泊しているワシには携帯電話の方が向いてたんです。
でも、勿論小中高のときは持ってませんでしたよ…
そんなもんありませんでしたし。

なので、ドキドキしながら電話をするわけです。
“あ、すいません。
 ハレンチ学園のズラトコですけど、
 フランソワさんいらっしゃいますか??”
こうしてお目当てのフランソワさんに代わっていただくわけですが、
最初に出たのが母親ならまだしも父親ならドキドキ度倍増ですな。

で、こんな電話があるせいで、
フランソワが学園ではズラトコと仲良くしていることが、
家庭内では仮に会話がなくとも露見してしまうんです。
でもこれってそんなに悪いことじゃないですよね?
根掘り葉掘り聞かれるのは勘弁して欲しいですけども、
親の立場からして知っておきたいことではあると思うんです。
思春期の難しい年頃でしょ…なかなか本音で会話できませんわな。
そうするとこういった機会が重要になってくるわけです。

ところが携帯電話持って部屋に入ってしまうと、
誰と何をしているか分からんわけです。
三十路のおっさんの毒牙にかかってしまってても、
それは秘密裏に行われてしまっちゃうわけですな。
かといって通話記録を申請したりすると管理されてる感がアリアリで、
何もなくとも反発しがちになったりしますわね。

また本来の使用目的以外での活用をしてしまうこともあり、
携帯サイトも色んなものがありますからねぇ…
危険だから小学生でも持たせる、
な〜んて言われると何も言い返せないんですが、
言い返せない世の中になってること自体が問題なんですよなぁ。


まぁまぁ、そんなことを思いながら、
ETCを使って爆走し、
カップラーメンを食べて、
鳴らない携帯を待つわけですわ…
こうして歳をとっていくわけですな。