言っておきたいことがある

友人の話をしたい。
彼はワシを命の恩人だという。


大学生のころ、サッカーの練習をしたあと、
そのまま帰宅するのがなんだか勿体なくて、
紀伊半島を1周しようという話になった。
夜の山道を、当時流行っていたinnocent worldを聴きながら、
彼の運転でご機嫌なドライブを楽しんでいた。


練習して疲れているということもあるし、
夜も随分と深まってきていたし、
彼は運転がすごくつらそうだったので、
ワシは交代することを提案したんだけれど、
頑固な彼は大丈夫だの一点張りだった。


次に運転席を見た時には、
彼の頭は垂れており、ハンドルは握られておらず、
だらりと下げられた手を支えている状態…
前を見ればガードレールが直前に迫りその向こうは谷底。


彼の名前を叫びながら助手席からハンドルをきる。
ぎりぎりのところで車は音をたてて曲がって車は止まり、
“ズラトコ、俺寝てたわ”
と彼はそう告げて運転席から降りた。



それから数ヶ月後、ワシらはインドネシアのバリ島にいた。
彼を含む友人たちと旅行にでたのだ。
18日間で8万5千円(朝食付)という破格の値段のツアーで、
大部屋に雑魚寝を覚悟していたワシらは、
4人でコテージ2つという待遇に驚いていた。


バリに着いてから3日目に海に入った。
4人全員が泳ぎに出てしまうと置き引きなどがある治安状況なので、
2人ずつ交代で見張りをすることになった…ワシは彼とコンビを組んだ。
じゃんけんで負けたので先に見張り役となり、
それから暫くして2人は待望の海へと突撃した。


波が高くって、
つま先立ちをしてさらに伸びるように波を超えるのが楽しかった。
そこにフランス人が1人やってきて、
当時のフランス人サッカー選手と言えばエリック・カントナだったので、
ワシらはそのフランス人をエリックと命名
言葉はよく分からないけれど3人で泳ぎ、遊んでいた。


そのうちエリックは帰ってしまったので、
ワシらも戻ろうという話になったんだけど、どうも様子がおかしい…
泳いでも泳いでも岸に近づかない。
見張りをしている友人たちはどんどん小さくなっていき、
本当に米粒みたいな大きさになってしまっていた。


ワシも友人も泳げないわけじゃない。
ただ自然の力をなめていた。
頭の上から波が降ってくることに恐怖することはできたけれど、
それ以上のことはできなかった。
波を被ってゴボゴボいいながら海中でのたうちまわり、
何とか海面に顔を出したと思ったらまた波を被る、その繰り返しで、
もうダメだと、正直なところそう思った。
ダメだと思うと身体はいっそう重くなる…そのことにもまた恐怖した。


一段と大きな波が降りかかってきて、
ワシと彼の位置が入れ替わったときに聞いた言葉をはっきりと覚えている。
“やばい”
“怖い”
“助けて”
“ズラトコ”
たった4つの単語を発して彼は見えなくなった。


うねっている波の向こう側にいるはずの彼に向って、
“頑張れ!!”
とは言うもののもう返事は聞こえない…
本当に、非常にマズイことになったと思い、
ワシも岸に戻ることを諦めた。


そもそも何度も“助けてくれ”と叫んでいた。
でもワシらの叫びはちっとも岸には届いていないようで、
米粒はいつまでたっても米粒でしかなかったので、
岸に自力で戻れるとは思えなかったのだ。


彼の元へ泳いでいって助ける、そんな選択肢もなかった。
絶対に無理だ、共倒れになる…
ワシではない誰か別の助けがないと彼は助からない、
それは確実だった。


横を見ると米粒がボードやサーフィンに精をだしていた。
あれなら波が高くても大丈夫…
ただがむしゃらに岸を目指していただけだったワシは、
彼が見えなくなったことで冷静になったんだろう、
それからの決断は相当早かったと思う。


それでも米粒は米粒でなかなか大きくならない。
間に合うかな、そもそもワシが辿りつけるかな、
ネガティブなことを思うたびに身体が重くなる。
邪念をふり払って力を振り絞り少しでも前へ…
そうすると少しずつ米粒は大きくなってきた。


心の底から“Help”という言葉を使ったのは、
このときより他にないし、最後であってほしいと思う。
声を聞きつけたボーダーやサーファーが、
ワシの下に集まってきた。
彼らは言う、もう大丈夫だと。


違う、そうじゃない。
助けが必要なのはワシじゃないんだ。
海の向こうを指さしながら“Help my friend!!”
いない?いなくてもいいから行けよ!!
怒鳴るような日本語に彼らも事情を察したんだろう、
10数名での捜索が始まった。


ワシは結局自力で岸まで戻ってきた。
1人がボードに乗れと言ってくれたんだけど、
そいつにも捜索部隊として探してもらいたかったし、
大丈夫だと思ったら身体は軽くなっていた。


荷物番をしていた友人たちは何も知らない。
彼らにとってもワシらは米粒だったから、
遠くまで泳ぎにいったもんだ…ぐらいにしか思っていなかった。
ワシには話のできる力は残っていなくて、
彼の名前を繰り返し絞り出しているだけだった。


しばらくして、
ボードに乗せられている彼をみて、ワシは泣いた。
彼は自分でしっかりとボードを掴んでいて、
岸に戻るとふらふらではあるけれども自分の力で歩いていた。
たらふく飲んだ海水を吐き出しながら、
ワシらは互いの無事を喜んだ。


彼はワシを命の恩人だという。


でも、いつも危険に誘っているのはワシなんだ。
紀伊半島一周しようぜと言い出したのも、
バリ島へ行こうぜと計画したのも、
もっと遠くまで泳いでみようと突き進んだのも、
全部ワシが発端になっているんだわ。


それにハンドルを切らなかったらワシも危なかった。
溺れたことにしたって、ワシも溺れていたし、
その後も彼が助かったということよりも、
助かったのがワシだけじゃなかったことに安堵するような、
ワシはそういう人間なんだ。


でも、彼は純粋で真っすぐな人間だから、
ワシを命の恩人だと言って、
事あるごとに“ありがとう”を口にする…



昨日、そんな彼の結婚式があった。
誠実で、でもちょっとだけ不器用な彼が、
愛を育んだ女性も素敵な人で、
ひねくれているワシですら幸せな気持ちになれるような、
本当にいい結婚式だった。


本人の前では決して口にはしないけれど、
心から幸せを願っている。
結婚、おめでとう!!